『地頭が良い』は才能ではない!?
知識だけではなく発想力に優れていたり、知識の活用が上手な子どものことを『地頭が良い』と表現します。『地頭が良い 意味』と検索すると〈教育で得られる知識の多さやスキルの高さではなく、本来の頭のよさを指す言葉のこと〉と出てきます。検索結果で出てきた意味のように〈才能のひとつ〉のように扱われます。しかし本当に地頭の良さとは、教育の中で得る事はできないのでしょうか?そもそも地頭が良い人はどんな習慣があって、どんな違いがあるのでしょうか?
地頭が良い子どもの習慣
結論から申し上げると、地頭の良いとされる子どもは『考える習慣』が違います。例えば、初めて見る知識もなく教わった覚えもない問題を見たとき、皆さんや皆さんのお子さんはどう考えると思いますか?
多くの子どもたちは『教わってないのに知る訳ないじゃん!』『難しいからムリ』『習ったことないからムリだ。。。』と諦めます。実はこれって『知識のあるか・ないか』が無意識のうちに判断基準になっています。そのため〈習っていない〉=〈知識がない〉=〈どうせできない〉=〈考えても無駄〉と考える事をやめます。
一方で『地頭が良い』といわれる子どもたちは『前に習ったアレに似てない!?』『この解き方使えるかな?』『ここに解決の糸口がありそうだ!』と考え続けます。実際に知識不足が原因で解けなかったとしても考え続けた過程は無駄になりません。
学校教育では厳しい
〈諦めて解かない〉と〈考え続けて解けなかった〉とでは、得るものは全く違います。これを毎日のように様々な場面で繰り返している訳ですから差ができて当然です。更に知識に頼らずに〈自分の力で解き切る体験〉は自信となって、より一層考えることが習慣化されていきます。
しかし学校教育で育むことは難しいと感じています。なぜなら学校教育とは、新たな知識を〈習う・教わる〉ところだからです。だからこそ知識暗記に傾倒気味になってしまうのは仕方ないことです。更に決められたカリキュラムで手一杯なので、時間のかかる〈考える習慣〉を育むことに向いていません。年々、応用力や活用力のある子どもが減っているように感じる教育者は多いと思います。(周りにいたらぜひ聞いてみて下さい)
皆さんのお子さんはどうでしょうか?『たったここだけ変化しただけなのに、何で解けなくなるの!?』と感じた事はないですか?もし思う所があれば暗記過多に陥って考える事を諦めている兆しかもしれません。
地頭が良い子にするには
以上のことから〈地頭の良さ〉とは考える習慣が身についているかどうかです。つまり、才能ではなく後天的に身に付けられる技術だと考えています。つまり地頭を良くするには、普段から考える機会をつくってあげる事が重要です。学校の勉強とは別で知識に依存しない考える習慣です。
まだお子さんが幼いならパズルや間違え探し、迷路なんかも良いと思います。遊びの一環として取り入れてあげると良いと思います。小学校中学年くらいなら、五目ならべや将棋などのボードゲームも良いと思います。コマ塾の扱う『みらスタ』も考える習慣にオススメです。興味がありましたらご相談ください。
個人的な話ですが、私は小学校1年生の頃から、迷路を自作したり、五目ならべや将棋もやっていました。手品やなぞなぞも『何で?』と考える事が好きで、ピタゴラスイッチを真似して家にあるもので作ってました。笑
いい大人になった今でもサイゼリアの間違い探しは本気でやってしまいます。笑
そのおかげか中学時代に数学の文章問題で困った記憶はありません。五目ならべや将棋を教えてくれた小学1年生の担任の先生に感謝ですね。